短歌ができてしまってからの雑感

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たぶん SSG のデフォルトの挙動?なのと自分が配信されなくていいと思っているので RSS に載っていないが、最近短歌を作るようになり、短歌のページを追加した。 短歌のページの一番古い 2025/01/23 の短歌が最初にできたときは短歌を作ろうといったような意図を持ってはいなかった。 普段雑に炊くせいで旨さがブレブレな米を食べながら、フィルム現像では記録をつけてある程度の再現性を確保しているのに対してあまりに炊飯が適当だなと思っていたら、なんかわからんができてしまった。 それ以前で最も最近に短歌に触れた機会というと、恐らく数年前に『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』に入っている塚本邦雄と葛原妙子の作品を読んだ時だが、当時このことを思い出しもしなかったので、振り返ると全く突然で偶然の出来事だった印象である。 それ以来1日に1~4首くらい短歌を作ったり短歌ができたりしているが、結構面白いので、偶然は偶然でもだいぶ良い部類の偶然に出会えたように思う。 そして、自分が感じている面白さの大部分は、文字数の制限故に短歌ではどうやっても所謂レポートや論文のような文章形式をとることができないところから来ている気がする。

この個人ホームページを SSG で作り直して直ぐの頃は色々記事書くぞ~~~と意気込んでいたものである。 しかし、過去書いてきたもののうち理工学系のレポートや論文の割合が大きすぎたせいか、いざ書いてみると「序論 → 先行事例とその課題 → やったこと → 結果 → 考察」に類する流れを持つ堅苦しい文章ができがちだったし、現状この傾向はまだまだ強い。 具体的にどうすれば好転するかわからないが、アプローチを変えず読み書きを続けているだけでは、文章のレポート的性質を上手く減じることは難しく、またその際に何を以て良しとするかも定まってこないだろうという感覚があった。 そんなんで記事を書くのがやや苦痛になっていた頃『センスの哲学』を読んでみたが、正直、知識を獲得しただけで終わってしまった。 付録の「芸術と生活をつなぐワーク」をサボってしまったのが良くなかったと思う。 あんまり文章を書こうという気分にならない日々だった。

短歌に話を戻すと、前述のように短歌では(ある程度定型に沿おうとする限り)文字数の制限があるので、序論から結論まで全部入れることは大抵諦めなくてはならない。 また、Web 上にある短歌に関する記事を幾つか読んだが、題材に対する作者の感性が良いとか、想像の余地があって良いとか、カ行の子音の反復が良いとか、上の句から感じられる予想を下の句が裏切るような構成で良いとか書かれている。 今までレポートや論文で避けてきた感想や修辞を使うと良いようなのである。 実際に自作の短歌の推敲をしてみて、そういったものなしではなかなか魅力に乏しくなるというのも概ね同意するところである。 結果、レポート的形式の文章を書きがちな自分でも、詠む時には望むと望まざるとに拘らずそういった文章構成から幾分離れることになる。 これが自身に短歌が面白く思えている大きな理由の1つではないかと思っているし、長い目で見て長文を書く際にその堅さを制御する能力に結びついてくれないかという淡い期待がある。

短歌に着手して日も浅く現状1日1首以上作る以外で特に目標はないが、せめて自作の歌集が1冊できるくらいまでは続いたらいいなあくらいは思わないでもない。 軽く躁入ってるか?  あと、この記事の最初の方に「最も最近」と出てくるのに対して、以前だったら最の重複が気持ち悪いので別の言い換えを考えていたと思うが、今回の執筆にあたってはちょい浮いた表現として残しても良いかと思ってそのままにすることにしたので、既に多少は変化があるのかもしれない。 「芸術と生活をつなぐワーク」にも再挑戦するべきかなぁ。


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